こんにちは。「ジェネレーションB」運営者のTAKUです。
リチャード・ヘルという名前を聞いて、あなたはどんなイメージを持ちますか?
「パンクのゴッドファーザー」「テレヴィジョンの元メンバー」「あのツンツン頭と安全ピンファッションの元祖」…いろんな断片的な情報は知っていても、彼が一体何者で、どれほどの影響力を持っていたのか、具体的にはよくわからない、という方も多いのではないでしょうか。
トム・ヴァーレインとの音楽性の違いからテレヴィジョンを脱退した理由、ジョニー・サンダースと組んだハートブレイカーズでの短い活動、そして自身のバンド、ヴォイドイズで生み出した名盤『Blank Generation』。
彼の経歴やプロフィールを追っていくと、常に時代の中心にいながら、決してメインストリームには染まらなかった孤高の存在感が見えてきます。
この記事では、そんなリチャード・ヘルの音楽活動はもちろん、後世に与えたファッションや哲学への影響、愛用したベース機材、そして小説『Go Now』に代表される文筆活動まで、その多岐にわたる才能の全貌に迫ります。
この記事でわかること
- リチャード・ヘルの輝かしい経歴とプロフィール
- テレヴィジョン脱退と各バンドでの音楽活動
- パンクファッションや後世に与えた絶大な影響
- 彼の思想や哲学が垣間見える文筆活動
1. パンクを創った男リチャード・ヘルの軌跡
まずは、リチャード・ヘルがどのようにしてNYパンクシーンの重要人物になったのか、その音楽的なキャリアを時系列で追っていきましょう。
彼のバンド遍歴は、そのまま70年代NYアンダーグラウンドシーンの歴史と言っても過言ではないかもしれませんね。
1-1. リチャード・ヘルのプロフィールと経歴
リチャード・ヘル、本名リチャード・レスター・マイヤーズは、1949年10月2日にケンタッキー州レキシントンで生まれました 。
父親は心理学者で大学の教員、母親も後に博士号を取得するという、かなり学術的な家庭環境で育ったんですね。
パンクのイメージとは少し違うかもしれませんが、この知的なバックボーンが、彼の表現の深みに繋がっているのは間違いないかなと思います。
しかし、彼が7歳の時に父親を亡くすという経験も、後の人格形成に大きな影響を与えたのかもしれません。
意外なことに、彼の当初の夢はミュージシャンではなく、詩人になることでした。
特に19世紀フランスの象徴主義詩人、アルチュール・ランボーに深く傾倒し、「ヘル」という名前もランボーの代表作『地獄の季節』(Une Saison en Enfer)から取ったと言われています。
ツンツンに逆立てた髪型も、ランボーの肖像画からインスピレーションを得たもの。
彼のパンク・ペルソナは、単なる思いつきではなく、深い文学的伝統に根差した、意識的に構築されたアイデンティティだったんですね。
そんな文学青年だった彼は、高校時代に後の盟友であり、最大のライバルともなるトム・ミラー(後のトム・ヴァーレイン)と出会います。
二人は意気投合し、共に高校を中退して夢を追い、1960年代後半にニューヨークへ移住しました。
1-2. テレヴィジョンとトム・ヴァーレインとの関係
ニューヨークに出たヘルとヴァーレインは、ドラマーのビリー・フィッカを加えて「ネオン・ボーイズ」というバンドを結成します。
この時、ヘルは生まれて初めて楽器(ベース)を手にしたそうです。
彼にとってベースは、音楽を極めるためのものではなく、あくまで詩的な自己表現のための道具の一つだったんですね。
この「非専門的」なアプローチが、彼のスタイルの核になっていきます。
ネオン・ボーイズはライブ活動をすることなく一度解散しますが、すぐにギタリストのリチャード・ロイドを加えて「テレヴィジョン」として再始動。
彼らは、後にNYパンクの聖地となるライブハウス「CBGB」のシーンを文字通りゼロから作り上げた創設バンドの一つです。
オーナーのヒリー・クリスタルを説得して自分たちの手でステージを作り、毎週ギグを行うことで、伝説の幕開けに貢献しました。
1-3. テレヴィジョンの脱退理由と音楽性の違い
しかし、バンドがアンダーグラウンドシーンで評価を高めていく中で、ヘルとヴァーレインの間にあった決定的な音楽性の違いが、日に日に大きな亀裂となっていきます。
音楽哲学の衝突
ヴァーレインが目指したのは、ジャズの影響も感じさせるような、複雑でクリーンなギターアンサンブルでした。
ヘルは後にこれを「水晶のようにクリアで、鮮明で、甘美なギター組曲」と表現しています。
一方でヘルが重視したのは、生のエネルギー、混沌としたステージパフォーマンス、そしてパンク的なシンプルさでした。
ヴァーレインはヘルの体を揺さぶり飛び跳ねる激しいステージングが、緻密に構築された音楽の邪魔だと感じていたようです。
バンド内の力学の変化
バンドの主導権が次第にヴァーレインに移っていくと、彼はヘルの代表曲である「Blank Generation」の演奏を拒否するようにまでなります。
さらに、当時ヴァーレインと恋愛関係にあったパティ・スミスの存在も、ヘルの孤立に拍車をかけました。
当初はバンド全体を支持していたスミスも、次第にヴァーレインとの結びつきを強め、バンドの方向性が固まっていったのです。

ヘルとヴァーレインの対立点まとめ
- 音楽性: 完璧主義で技巧的なヴァーレイン vs 生々しいエネルギーを重視するヘル
- ステージング: ヘルの過激なパフォーマンスを快く思わないヴァーレイン
- 主導権: ヴァーレインがバンドの方向性を掌握し、ヘルの曲を排除
結局、1975年にヘルは自らの曲とパンク精神を携えてテレヴィジョンを脱退します。
この分裂がなければ、テレヴィジョンの歴史的名盤『マーキー・ムーン』も、ヘルのパンクアンセム『ブランク・ジェネレーション』も生まれなかったと考えると、これは歴史の必然だったのかもしれませんね。
1-4. ハートブレイカーズでの短い活動
テレヴィジョン脱退直後、ヘルは元ニューヨーク・ドールズのジョニー・サンダースとジェリー・ノーランに誘われ、「ザ・ハートブレイカーズ」を結成します。
まさにNYパンクのスーパーグループですが、この夢のバンドも長くは続きませんでした。
ここでもやはり、ジョニー・サンダースというもう一人の強烈な個性との音楽的な確執が原因でした。
ヘルはわずか数ヶ月でバンドを去ってしまいます。
彼がフロントマンとして完全なコントロールを握らない限り、バンドは長続きしないというパターンがここで確立されたのかもしれません。
ただ、この短い期間にも「Blank Generation」や「Love Comes in Spurts」の初期バージョンを含む貴重なデモやライブ音源が残されており、ファンにとっては見逃せない時代です。

1-5. ヴォイドイズと名盤Blank Generation
二つのバンドでのフラストレーションを経て、ヘルはついに自らがリーダーシップを握るバンド「リチャード・ヘル&ザ・ヴォイドイズ」を結成します。
メンバーには、後のラモーンズのドラマー、マーキー・ラモーンや、そして何よりヘルの音楽を完璧に理解した天才ギタリスト、ロバート・クワインがいました。
そして1977年、NYパンクを象徴する金字塔的アルバム『Blank Generation』をリリースします。
ヘルの詩的でニヒリスティックなボーカルと、ロバート・クワインの痙攣するような鋭角的なギターが絡み合うサウンドは、まさに唯一無二のものでした。
商業的な大成功には至りませんでしたが、批評家からは絶賛され、パンクの歴史における最重要アルバムの一つとして今も語り継がれています。
1-6. 2ndアルバムDestiny Streetの評価
『Blank Generation』から5年後の1982年、2ndアルバム『Destiny Street』がリリースされます。
この長い空白期間には、マーキー・ラモーンのラモーンズへの移籍や、ヘル自身の深刻化するドラッグ問題などがあったと言われています。
アルバムにはオリジナル曲の他にボブ・ディランなどのカバー曲も収録されており、前作ほどの創作エネルギーは感じられないという評価もありました。
パンクブームが過ぎ去っていたこともあり、当時は大きな話題にはなりませんでしたが、後に再評価され、現在ではその荒削りながらも味わい深い内容を支持するファンも多いですね。
その後、ヘルは1984年に『R.I.P.』というEPをリリースし、本格的な音楽活動からは身を引くことになります。
2. リチャード・ヘルが後世に残した多大な影響
リチャード・ヘルのすごさは、音楽だけにとどまりません。
彼がファッションやカルチャー全般に与えた影響は、計り知れないものがあります。
ここでは、彼の音楽以外の側面にも光を当ててみたいと思います。
2-1. パンクファッションへの影響
今では当たり前になった「パンクファッション」— ツンツンに逆立てた髪、安全ピンで留めたボロボロのTシャツ、「Please Kill Me」といったDIYスローガン — これらを最初に始めたのがリチャード・ヘルであることは、もっと知られていい事実だと思います。
そして、このスタイルを世界的に広めたのが、セックス・ピストルズの仕掛け人、マルコム・マクラーレンです。
当時ニューヨーク・ドールズのマネージャーをしていたマクラーレンは、ニューヨークでヘルの姿を見て衝撃を受けます。
彼はヘルのルックとアティチュードという「コンセプト」をロンドンに持ち帰り、セックス・ピストルズのイメージを作り上げたのです。
パンクファッションの歴史を塗り替える事実
つまり、パンクファッションの起源はロンドンではなく、ニューヨークのリチャード・ヘルにある、ということですね。
これは単なる憶測ではなく、マクラーレンがヘルをピストルズに誘った(そして断られた)という事実からも裏付けられています。
この事実は、パンクの歴史を語る上で非常に重要です。
ヘルの生み出した美学は、その後数十年にわたってストリートの定番となり、今では高級ブランドのランウェイからH&Mのようなファストファッションチェーンまで、あらゆる場所に影響を与え続けています。
2-2. 愛用したベースなどの機材について
ヘルの楽器選びも、彼のスタイルを象徴していて面白いです。
彼は決して技巧的なベーシストではありませんでしたが、その楽器選びには明確な美学、つまり「見た目」と「姿勢」が反映されていました。
リチャード・ヘルの主要ベース
| モデル名 | 使用時期 | 特徴 |
|---|---|---|
| デインエレクトロ 3412 ショートホーン | テレヴィジョン、ハートブレイカーズ初期 | 軽量で独特のチープなトーンが魅力 |
| フェンダー・ムスタング・ベース | 70年代後半 | アンティグア・バーストという珍しいフィニッシュが有名 |
| アンペグ・ダン・アームストロング・ルサイト・ベース | ヴォイドイズ時代 | 透明なアクリルボディが視覚的に強烈なインパクト |
| ギブソン EB-1 | ハートブレイカーズ時代 | ヴァイオリン型のユニークな形状 |
高価な名機ではなく、どこかB級感のある楽器や、見た目にインパクトのある楽器を選ぶあたりも、彼のDIYなパンク精神の表れと言えるかもしれませんね。
2-3. 小説Go Nowや自伝などの文筆活動
1984年以降、音楽の第一線から退いたヘルは、彼が元々目指していた文筆家としての活動を本格化させます。
これは「引退」というより、彼のキャリアの原点への「回帰」と捉えるのが正しいかもしれません。
小説家としてのデビュー
1996年には、半自伝的なドラッグ小説『GO NOW』を発表]。
パンクムーブメントが燃え尽きた後の、ヘロインに溺れる主人公のアメリカ横断の旅を描いたこの作品は、「ふざけた魂の誠実な記録」とも評され、彼の文学的才能を世に知らしめました。
決定版自伝の出版
2013年には、決定版と言える自伝『I Dreamed I Was a Very Clean Tramp』を出版。
生い立ちから80年代半ばまでのキャリアを自身の言葉で赤裸々に綴っており、彼の内面や当時のシーンの様子を理解する上で欠かせない一冊です。
2-4. 彼の哲学がわかる名言やインタビュー
リチャード・ヘルの作品やインタビューからは、彼の独特な哲学が垣間見えます。
彼の代表曲「Blank Generation」は、しばしばニヒリズム(虚無主義)の歌だと誤解されがちですが、本人はインタビューで「白紙の状態(Blank Slate)」を意図していたと語っています。
「空白の世代」とは、何もない空っぽの世代という意味ではなく、「既存の価値観を拒否し、自分たちで新しい価値を創造できる世代」という、むしろポジティブで実存主義的なメッセージだったんですね。
「I can take it or leave it each time(いつでも受け入れることも、拒否することもできる)」という歌詞が、その選択の自由を示唆しています。
彼の作品は一貫して「なぜ生きる必要があるのか?」という根源的な問いと向き合っています。
この哲学的な深さこそが、彼が単なるパンクロッカーではなく、思想家として今なお多くの人々を惹きつける理由なのでしょう。
2-5. まとめ:孤高の天才リチャード・ヘルの魅力
ここまで、リチャード・ヘルのキャリアと彼が与えた影響について見てきました。
彼は商業的な成功とは無縁でしたが、音楽、ファッション、思想のすべてにおいて「パンク」というカルチャーの設計図を描いた、真のオリジネーターでした。
テレヴィジョンやハートブレイカーズでの葛藤、そしてヴォイドイズでの結実。
彼の歩みは、常に自分自身の表現を追求し続けた、孤高のアーティストの記録です。
リチャード・ヘルという存在は、成功や名声だけがアーティストの価値ではないことを教えてくれます。
彼が残したものは、チャートの記録ではなく、カルチャーそのものの中に深く刻まれているのですから。
もしあなたがまだリチャード・ヘルの音楽に触れたことがないなら、ぜひアルバム『Blank Generation』を聴いてみてください。
そこには、時代を超えて輝きを放つ、鋭く、知的で、ロマンチックなパンクロックが詰まっています。
彼の音楽や言葉は、きっとあなたの心に何かを残してくれるはずです。

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