こんにちは、ジェネレーションBのTAKUです。
『クリムゾン・キングの宮殿』を買い直そうとして、検索の途中で「マスターテープ」という言葉に引っかかったあなた。
たぶん、こんな疑問が浮かんでいるはずです。
行方不明だったマスターテープって何の話? それが見つかったなら、今売られている盤はどれも音がいいの? じゃあ高い英国初回盤を買う意味は?
この作品は、再発の数がとにかく多い。
CD、SHM-CD、紙ジャケ、周年ボックス、200g重量盤、そして配信。
しかも「リマスター」と書いてあっても中身が全部違います。
だから、何も知らずに買うと、同じアルバムを二度三度と買い直すことになりがちなんですよね。
この記事では、宮殿のマスターテープがなぜ消え、いつ、どこから出てきたのか。
そして、その発見の前と後で、実際に聴こえてくる音がどう変わったのかを、版ごとに具体的に書いていきます。
読み終わるころには、あなたが買うべき一枚が絞り込めているはずですよ。
この記事でわかること
- マスターテープが行方不明になった経緯
- 再発見された年と、その前後で変わったこと
- 1969年盤から2019年ミックスまでの音の違い
- 目的別に選ぶべき版と、避けたい落とし穴
1. クリムゾン・キングの宮殿のマスターテープが消えた話
まず、話の出発点になる部分から。
なぜ、ロック史でも屈指の有名アルバムのマスターテープが、何十年も行方不明のままだったのか。
ここには録音現場の事故と、当時のレコード会社の管理体制、その両方が絡んでいます。
順を追って見ていきましょう。
1-1. 1969年ウェセックスでの録音

『クリムゾン・キングの宮殿』は、1969年の夏にロンドンのウェセックス・サウンド・スタジオで録音されました。
使われたのは1インチ幅の8チャンネル・レコーダーです。
今の感覚だと「たった8トラック?」と思うかもしれませんが、当時としては標準的な環境でした。
もともとは、ムーディー・ブルースの仕事で知られるトニー・クラークをプロデューサーに迎えてセッションが始まっています。
ところがこれがうまくいかず、バンドは自分たちでプロデュースする許可を得て録り直しに入りました。
エンジニアはロビン・トンプソン、アシスタントにトニー・ペイジ。
つまりこの作品は、経験豊富なプロデューサーの管理下ではなく、20代前半の若いバンドが自分たちの判断で音を積み上げた録音物なんです。
そして問題は、その「積み上げ」の量でした。
イアン・マクドナルドは、あの分厚いメロトロンや木管の層を作るために、気の遠くなるようなオーバーダビングを重ねています。

8トラックしかない環境で層を増やすには、既に録った音をまとめて別のテープに落とす必要がある。
曲によっては、完成までに5世代ものテープを経ていたと言われます。
この時点で、すでに音は何度も乗り換えを繰り返していたわけですね。
1-2. ミックスで起きたヘッドの狂い

本当の問題は、そのあとに起きました。
アルバムが完成してしばらく経ってから、ミックスダウンに使っていたステレオ・マスター・レコーダーの録音ヘッドの向きが、正しく揃っていなかったことが分かったのです。
テープのヘッドがわずかに傾いていると、高い周波数から順に削られていきます。
加えて、意図しない歪みも乗る。
つまり、演奏そのものは完璧に録れていたのに、最後の最後で「写し取る側」が狂っていたということになります。
この影響が最も出たのが、1曲目の「21世紀のスキッツォイド・マン」でした。
あの曲はサックスとギターとベースがユニゾンで疾走する場面が続きますが、高域が痩せると、シンバルの粒とサックスの倍音が同時にぼやける。
歪んだボーカルの子音も潰れます。
あなたが古いCDで聴いて「なんだかモヤっとしているな」と感じたことがあるなら、その正体はここにあった可能性が高いです。
ヘッドの角度のズレは、アナログ・テープでは珍しい事故ではありません。
ただ、通常は録り直しや調整で対応できます。
宮殿の場合は、それに気づいたのがアルバム完成後だったため、取り返しがつかない状態になっていました。
1-3. アメリカ盤のための補正コピー
そこで取られた対応が、アメリカでの発売に向けた「補正コピー」の作成です。
アトランティック・レコードから出す最初のアメリカ盤を準備する段階で、オリジナルの2トラック・ステレオ・マスターから、不具合をできる範囲で補正した特別なコピーが作られました。
ここが分かれ道でした。
アナログのテープは、コピーすれば必ず何かを失います。
ノイズが増え、輪郭がわずかに鈍る。
それでも、高域が削れて歪んだ状態よりはマシだという判断だったのでしょう。
こうして「2世代目の、補正済みコピー」が、実質的な流通用マスターの座に就いてしまいます。
そして、元になった一次マスターのほうは、1969年のミックス作業が終わったあと、そのまま棚に仕舞われました。
誰も気に留めないまま、行方が分からなくなります。
1-4. コピーから作られ続けた再発盤

結果として、1969年から2000年代初頭まで、世界中で売られた宮殿はすべて、この補正コピー、あるいはそこからさらに落とされたサブマスターを元にしていたことになります。
レコードも、カセットも、CDも。
とくに1980年代から1990年代にかけて、ポリドールやE.G.レコードから出た再発は、元のサブマスターから何世代も離れたコピーが使われていました。
テープヒスが目立ち、抜けが悪い。
当時「宮殿はCDになると音が痩せる」と言われていたのは、CDという規格のせいではなく、供給されていたテープの素性の問題だったわけです。
さらにややこしい話もあります。
マスタリングの立ち会いをしていたイアン・マクドナルドが、コピー・マスターの右チャンネルに問題があることを見つけているんですね。
しかし一次マスターが手元にない以上、根本的には直せない。
そこからしばらくは、イコライザーで辻褄を合わせる対処が続きました。
ロバート・フリップ自身も、各国の工場でテープが適切に管理されないまま複製されていく構造そのものを問題にしています。
ここで押さえておきたいのは、「古い盤だから音がいい」とは限らないということです。
宮殿に関しては、1969年の英国オリジナル盤ですら、一次マスターから直接カッティングされたとは限りません。
年代の古さと素性の良さは、必ずしも一致しないんです。
2. マスター再発見までの長い道のり
ここからは、失われたテープが見つかるまでの流れです。
その途中で何度もリマスターが出ているので、中古で買うときに混同しやすい部分でもあります。
年代と担当者をセットで覚えておくと、ジャケットの裏を見ただけで見当がつくようになりますよ。
2-1. 1989年のCD化と音の評判
宮殿が本格的にCD化されたのは1989年、「ディフィニティヴ・エディション」と銘打たれたシリーズの一枚としてでした。
リマスターはロバート・フリップとトニー・アーノルド。
当時としては丁寧な仕事だったはずですが、素材が素材ですから限界があります。
この盤を今聴くと、全体に平板で、高域に薄い膜がかかったように感じます。
ただ、当時これを買った人が悪い買い物をしたわけではありません。
その時点で手に入る最良の素材を使って作られていたのは確かなので、そこは公平に見ておきたいところです。
2-2. 1999年の30周年リマスター
次が1999年、発売30周年に合わせて出たヴァージン盤です。
24ビットとHDCDの技術を使い、サイモン・ヘイワース、ロバート・フリップ、デイヴィッド・シングルトンが手がけました。
この版は、1989年盤に比べると明らかに情報量が増えています。
メロトロンの層が分離して聞こえ、マイケル・ジャイルズのシンバルの余韻が伸びるようになった。
当時これを買って「やっと本来の宮殿が聴けた」と思った人は多かったはずです。
私もそう感じました。
ただし、これもまだコピー・マスターからの仕事です。
技術で磨いた結果であって、元の素材に戻ったわけではない。
この違いは、次の版と並べたときにはっきりします。
2-3. 倉庫から出てきた一次マスター

そして転機が訪れます。
ヴァージン・レコードのアーカイヴに保管されていたテープの中から、1969年の一次ステレオ・マスターが見つかったのです。
発見の時期については、資料によって2002年とするものと2003年とするものがあります。
スタッフが倉庫で確認した時期と、正式にアナウンスされた時期にずれがあるためだと考えられますが、断定はできません。
いずれにせよ、2000年代初頭の出来事でした。
面白いのは、その状態です。
曲と曲の間にはスプライシング・テープ(編集用のつなぎテープ)がそのまま残っていて、しかも「風に語りて」から「エピタフ」へのクロスフェードが、まだ作られていなかったといいます。
つまり見つかったのは、完成品の直前段階の姿を留めたテープでした。
30年以上、誰にも聴かれないまま、1969年の作業の途中経過ごと眠っていたということになります。
テープが物として残っていることの意味を、これほど分かりやすく示す例も珍しいですね。
2-4. 2004年オリジナル・マスター盤
この一次マスターを使って、2004年に発売されたのが「オリジナル・マスター・エディション」です。
トランスファーとマスタリングはサイモン・ヘイワース。
追加のイコライジングをかけず、テープから直接落とす方針で作られました。
24ビットとHDCDという枠組みは1999年盤と同じですが、入り口が違います。
実際に聴くと、まず無音部分の質が変わったことに気づきます。
今まで「音の壁」に紛れていた細かいノイズや、演奏者が動く気配のようなものが、輪郭を持って出てくる。
ボーカルの子音の抜けも良くなりました。
一方で、この盤は評価が割れています。
高域が前に出た結果、耳に刺さると感じる人もいますし、低域の土台がやや軽くなったという指摘もある。
素性が良くなることと、聴いていて気持ちいいことは、別問題なんですよね。
ここは正直に書いておきます。
◆TAKUのひとこと
3. リマスターとリミックスの違い
ここで一度、言葉の使い分けを確認させてください。
宮殿の再発を語るとき、この二つを混ぜて書いている記事がとても多く、それが「どれを買えばいいか分からない」の最大の原因になっています。
中身がまったく別物なので、区別できるようになると一気に見通しが良くなりますよ。
3-1. 音質をやり直すのがリマスター
リマスターは、すでに完成しているステレオ・ミックスを素材として、最終的な音質を作り直す作業です。
音量や帯域のバランスを整え、ノイズを処理し、曲間を調整し、配布する媒体に合わせて仕上げる。
ここで重要なのは、楽器同士のバランスそのものには手を入れられないという点です。
ギターだけ持ち上げる、といったことはできません。
すでに混ぜ終わった一枚の絵に、額装と照明を変えるようなイメージですね。
1989年盤、1999年盤、2004年盤は、すべてこちらに当たります。
3-2. 混ぜ直すのがリミックス
対してリミックスは、マルチトラック、つまり楽器ごとに分かれた録音まで遡って、配置とバランスを組み直す作業です。
宮殿の場合は8トラックのマスターが素材になります。
こうなると、できることが一気に増えます。
左右に振られていた楽器を中央寄りにする、埋もれていたパートを引き上げる、余計な残響を減らす。
その代わり、1969年に完成した「あの音像」とは別物になります。
良い悪いではなく、別の作品として受け止めたほうがいい種類の変化です。
3-3. 宮殿では両方が行われている

宮殿がややこしいのは、この両方が、しかも複数回行われている点にあります。
リマスターは1989年、1999年、2004年。
リミックスは2009年と2019年、いずれもスティーヴン・ウィルソンとロバート・フリップの手によるものです。
さらに2020年には、ドルビー・アトモス用のミックスまで作られました。
だから、店頭で「リマスター」とだけ書かれた宮殿を見かけても、それだけでは中身が判断できません。
買う前に確認すべきは「何年の、どの作業によるものか」の一点です。
周年記念盤で新しいミックスが作られる例はほかにもあって、たとえばラモーンズのファーストで新規モノラル・ミックスが作られた経緯も、同じ構造の話として読めますよ。

4. 主要な版で音がどう変わるか
それでは、実際にどう聴こえるのかを版ごとに書いていきます。
まず全体像を表にまとめておきますね。
なお、以下の音の印象は私が自分の環境で聴いた感想であり、再生装置によって受ける印象は変わります。
そこは差し引いて読んでください。
| 版 | 年 | 作業の種類 | 元になった素材 | 向いている人 |
|---|---|---|---|---|
| ディフィニティヴ・エディション | 1989 | リマスター | コピー・マスター | 当時の空気を知りたい人 |
| 30周年盤 | 1999 | リマスター | コピー・マスター | 中古で安く手に入れたい人 |
| オリジナル・マスター盤 | 2004 | リマスター | 一次ステレオ・マスター | 1969年の音像に近づきたい人 |
| 40周年ミックス | 2009 | リミックス | 8トラック・マスター | 細部まで聴き分けたい人 |
| 50周年ミックス | 2019 | リミックス | 8トラック・マスター | 原曲の質感も残したい人 |
4-1. 1969年ミックスの手触り
1969年に完成したオリジナル・ミックスは、今の耳で聴くと定位がかなり極端です。
楽器が左右にきっぱり振り分けられ、真ん中が空いている場面がある。
当時のステレオ表現がまだ発展途上だったことの表れですね。
ただ、この極端さが独特の緊張感を生んでいます。
「エピタフ」でメロトロンが左右から挟み込んでくる感じは、後年のミックスでは味わえない。
部屋全体が鳴っているというより、頭の中で鳴っている感覚に近いです。
ヘッドホンで聴くと、その異様さがよく分かりますよ。
4-2. 2004年盤で見えた細部

2004年のオリジナル・マスター盤は、この1969年ミックスを、初めて一次マスターから聴かせてくれた版です。
定位は同じですが、輪郭がはっきりします。
いちばん違いを感じたのは「ムーンチャイルド」の後半でした。
ヴィブラフォンやギターがぽつぽつと置かれていく即興の場面で、音と音の間の静けさに質感が出る。
それまでのCDでは、その静寂がただの無音か、テープヒスの海でした。
ここが「空気になった」のは大きな変化だと思います。
逆に言うと、高域の情報が増えた分、再生装置によっては金物がきつく感じられることもあり、機材の粗も一緒に暴いてくる盤です。
この2004年盤が、記事の主役である一次マスターから作られた唯一の単体CDです。
サイモン・ヘイワースが追加のイコライジングをかけずにテープから直接落とした、いわば発見の成果そのもの。
見分け方は簡単で、ジャケット裏の「Original Master Edition」表記と、規格番号DGM0501です。
国内流通は輸入盤が中心なので、対訳は付きません。
そこは割り切ってください。(在庫と価格は動きます。記事執筆時点の情報なので、購入前に販売店で確認してくださいね)
一次マスターから作られた唯一の単体CD
クリムゾン・キングの宮殿 オリジナル・マスター・エディション(DGM0501)
2003年に発見された1969年の一次ステレオ・マスターを、追加のイコライジングなしで転送した24bit/HDCD盤。ジャケット裏の「Original Master Edition」表記と規格番号が目印です。
※価格・在庫は変動します。最新情報は各販売ページでご確認ください。
4-3. 2009年ミックスの広がり
2009年、40周年に合わせてスティーヴン・ウィルソンが8トラックから組み直したのが、新しいステレオ・ミックスと5.1chサラウンドです。
DVD-Audioに収められ、CD2枚組、CD+DVD、そして5枚組ボックスと、複数の形で売られました。
このミックスは、とにかく見晴らしがいい。
左右に張り付いていた楽器が空間の中に配置し直され、ドラムの胴鳴りやベースの指の動きまで分かるようになりました。
初めて聴いたとき、「こんなにベースが弾いていたのか」と驚いた記憶があります。
ただし、これは1969年の宮殿とは違う音像です。
あの、狭くて息苦しい感じが好きな人にとっては、整いすぎて聞こえるかもしれません。
入門用にこれを勧めるかどうかは、私も少し迷うところですね。
ここで大事な話をひとつ。
2009年ミックスは、50周年エディションには入っていません。
あのボックスの中身は2019年ミックスと2004年オリジナル・マスター盤で、40周年ミックスだけは別に手に入れる必要があります。
単体で買うなら、2009年のマスターを使ったMQA-CD Ver.(IEMQ-8)。
国内初発売時のLPを再現した見開き紙ジャケットに、日本オリジナル2ndプレスの赤文字帯を復刻した帯が付きます。
MQAという規格名で身構えなくて大丈夫で、普通のCDプレーヤーでそのまま再生できます。
ただ、この盤はすでに新品での供給が終わっていて、見かけたときが買いどきという状態です。
手に入らない場合は、40周年記念エディションのCD+DVD-Audio盤を中古で探すことになりますね。(廃盤・限定盤は在庫が読めません。価格も含め、購入前に必ず確認してください)
初めての一枚に、いちばん迷わない選択
クリムゾン・キングの宮殿 SHM-CDエディション(POCS-1888)
2019年のスティーヴン・ウィルソン・ステレオ・ミックスを単体で収めた紙ジャケット仕様。日本語の解説と歌詞対訳が付くので、言葉が要になるこの作品を最初に聴くならこちらが安心です。
※価格・在庫は変動します。最新情報は各販売ページでご確認ください。
4-4. 2019年ミックスの落ち着き

そして2019年、50周年に合わせて再びウィルソンが手を入れました。
本人は2009年の仕事にも満足していると語りつつ、
この新しいミックスは明確な前進であり、1969年のオリジナル・ミックスにより忠実になっていると説明しています。
実際に並べて聴くと、その通りだと感じます。
2009年版ほど劇的に開かないぶん、曲の重心が元の位置に戻っている。
とくに「クリムゾン・キングの宮殿」の後半、メロトロンが押し寄せてくる場面での圧のかかり方は、2019年版のほうが1969年の記憶に近いです。
面白いのは、いまだに2009年版を推す人が少なくないことです。
日本では2009年のマスターを使ったMQA-CD盤が出ていて、そこでも「50周年より、こちらを支持するファンも多い」と紹介されているくらい。
新しいほうが正解、とはならないのがこの作品の面白いところですね。
5. 曲ごとに聞こえてくる差

ここからは、具体的にどの曲のどこを聴けば違いが分かるのかを書いていきます。
買い比べを考えているなら、この4か所を基準にすると判断しやすいですよ。
5-1. スキッツォイド・マンの歪み
1曲目「21世紀のスキッツォイド・マン」は、ヘッドのズレによる高域の劣化がいちばん出ていた曲です。
だから版による差も最も大きい。
聴き比べるなら、イントロのノイズが晴れてバンドが飛び込んでくる瞬間と、中盤のユニゾンで駆け上がる場面です。
古いコピー由来の盤では、サックスとギターが団子になって、どちらが何を吹いて弾いているのか分からなくなります。
2004年盤ではその塊がほどけ、2009年以降のミックスでは完全に別々の楽器として並びます。
それから、グレッグ・レイクの声。
この曲のボーカルには意図的な歪みがかけられていますが、その歪みが「効果」として聞こえるか、「潰れ」として聞こえるかが、版の素性を判断するいちばん分かりやすい目印だと思っています。
歌い手の耳で言うと、息を吸う位置が聞こえる盤は素性が良い。
5-2. エピタフのメロトロンの層
「エピタフ」は、メロトロンが何層も重ねられた曲です。
前に書いた通り、その層を作るために何度もテープを乗り換えていますから、もともと世代の重なった音が入っています。
ここで聴くべきは、歌が入る前の序奏と、後半で全体が持ち上がる場面。
層が団子になる盤では、ただの「大きな音の壁」になります。
元のテープに近いところから作られた盤、いわゆる素性の良い盤だと、壁の中に別々のテープの質感が見えてくる。
上手いリマスターは、この不揃いさを消さずに残します。
5-3. ムーンチャイルドの長い即興
「ムーンチャイルド」は、歌の部分が終わったあと、延々と即興が続きます。
この曲を退屈だと感じる人が多いのは知っていますし、その気持ちも分かります。
私も最初はそうでした。
ただ、この曲こそ版による差が出ます。
音数が少ないぶん、静けさの質がそのまま出るからです。
ノイズだらけの盤では、演奏の間が「無」になってしまう。
素性の良い盤では、その間に部屋の気配が残ります。
ちなみに2009年の40周年パッケージには、この曲を短く編集したバージョンとフル・バージョンの両方が入っています。
編集版のほうが聴きやすいのは確かですが、この曲の本質は長さそのものにあると思うので、一度はフルで通してみてほしいです。
5-4. グレッグ・レイクの声の説得力
最後に、ボーカルの話をさせてください。
この作品のグレッグ・レイクは、まだ21歳です。
それでいて、声にまったく力みがない。
「風に語りて」での、息をほとんど押し出さずに置いていくような歌い方。
「エピタフ」で、言葉の頭を強く立てず、母音を伸ばしきらずに引く歌い方。
あれは技術というより、そう歌うと決めた判断だと思うんです。
この抑制が、大げさな歌詞と楽器の厚みを支えている。
だから私は、版を選ぶときにボーカルの近さを基準にしています。
声が近すぎる盤は、この抑制が「弱さ」に聞こえてしまう。
少し引いた位置に立っているほうが、この人の歌は説得力を持つんですよ。
6. どの盤を選べばいいのか

ここまで読んで、逆に迷いが増えた人もいるかもしれません。
ここからは目的別に絞り込んでいきましょう。
結論から言うと、初めてなら現行の入手しやすい盤、追い込みたいなら収録内容を確認したうえでの周年盤です。
6-1. 初めて聴く人に向く現行盤
最初の一枚は、今ふつうに買えるものでかまいません。
むしろ、いきなり高い盤に手を出すのはおすすめしないです。
この作品は、好きになるまでに時間がかかる人がそれなりにいるので。
日本では、2019年のウィルソン・ステレオ・ミックスを単体で収めたSHM-CD盤が紙ジャケット仕様で出ており、日本語の解説と対訳が付きます。
歌詞の対訳が付くのは日本盤の大きな利点で、この作品のように言葉が重要な作品では効いてきますよ。
ただし注意点があります。
日本での宮殿の発売元は、これまでに何度か変わっています。
以前ボックスを出していたWOWOWエンタテインメントがレーベル事業から撤退し、現在はユニバーサル系に移りました。
その過程で、数年前に出たばかりの盤が廃盤になっていることがあります。
買うときは在庫と品番を確認してください。
品番はPOCS-1888。
日本語の解説と対訳が付くのが利点です。
初めての一枚に、いちばん迷わない選択
クリムゾン・キングの宮殿 SHM-CDエディション(POCS-1888)
2019年のスティーヴン・ウィルソン・ステレオ・ミックスを単体で収めた紙ジャケット仕様。日本語の解説と歌詞対訳が付くので、言葉が要になるこの作品を最初に聴くならこちらが安心です。
※価格・在庫は変動します。最新情報は各販売ページでご確認ください。
6-2. 音を追い込みたい人向けの盤
版ごとの違いを自分の耳で確かめたいなら、50周年アニヴァーサリー・エディションが効率的です。
CD3枚とBlu-rayという構成で、Blu-rayには2019年の新ステレオとサラウンドが24ビット96キロヘルツで入り、さらに2004年のオリジナル・マスター・エディション、つまり1969年ミックスのハイレゾ版も同じディスクに収められています。
要するに、一枚のディスクの中で「発見前の音」と「発見後の音」を切り替えて比べられるわけです。
この記事で書いてきた違いを検証するには、これがいちばん早い。
日本盤はK2HD HQCD仕様で、日本語解説とブックレット訳が付いたボックスとして出ていました。
Blu-rayオーディオを再生するには対応プレーヤーが必要です。
パソコンのドライブでは再生できない場合があります。
「CDが3枚入っているから大丈夫」と考えて買うと、いちばんおいしい部分が聴けません。
購入前に再生環境を確認してください。
しかし、この記事で書いてきた「発見前と発見後」を自分の耳で確かめたいなら、これが最短です。
Blu-rayの中に2019年ミックスと2004年オリジナル・マスター盤のハイレゾ版が同居しているので、一枚のディスクでマスターテープの前後を切り替えられます。
日本盤はIEZP-128。
CD3枚がK2HD HQCD仕様で、英文ブックレットの和訳と日本語解説が付きます。
音だけでいいなら輸入盤で十分ですが、この作品の背景まで読みたい人には国内盤ですね。(限定盤のため在庫と価格は変動します。購入前に販売店で確認してください)
発見の前と後を、一枚で聴き比べる
In The Court Of The Crimson King 50th Anniversary Edition 輸入盤(3CD+Blu-ray)
Blu-rayに2019年ステレオ・ミックスと、2004年オリジナル・マスター・エディション(1969年ミックス)のハイレゾ版を同時収録。輸入盤のため日本語解説と対訳は付きませんが、その分手に取りやすい価格です。Blu-rayオーディオの再生には対応プレーヤーが必要になります。
※価格・在庫は変動します。最新情報は各販売ページでご確認ください。
6-3. アナログ盤を選ぶときの注意
アナログで買う場合、現行で手に入りやすいのは200g重量盤の再発です。
ただし、ここも中身が二通りあります。
ひとつは2010年に出た40周年の200g盤。
これは1969年のオリジナル・ステレオ・ミックスをリマスターし、ラウド・マスタリングのジョン・デントがカッティングしたものです。
もうひとつが2019年の50周年200g2枚組で、こちらは1枚目に2019年ウィルソン・ミックス、2枚目に2019年ミックスによる別テイクが入っています。
つまり、同じ「200g重量盤の宮殿」でも、収録されているミックスが違うということ。
当時の鳴り方が欲しいなら前者、新しいミックスをアナログで聴きたいなら後者です。
重量盤だから音がいい、という理由で選ぶと目的を外します。
重量が効くのは主に反りや回転の安定であって、音の素性を決めるのはカッティングとプレスと元マスターですからね。
6-4. 日本盤と輸入盤のどちらか

日本盤の利点は、対訳、解説、紙ジャケット、帯。
輸入盤の利点は、価格と入手性です。
音源そのものは同じマスターを使っていることが多いので、選択の基準は音より付属情報になります。
もうひとつ、日本盤には固有の事情があります。
「21世紀のスキッツォイド・マン」は、かつて「21世紀の精神異常者」という邦題で流通していました。
表現上の配慮から現在の表記に変わっていますが、中古で古い日本盤を探すときは、旧邦題で検索したほうが引っかかることがあります。
国ごとの盤の違いという意味では、ローリング・ストーンズのファーストで英国盤と米国盤が別物になった経緯も参考になるはずです。

7. 中古で古い盤を買うときの注意
ここからは、英国初回盤やオリジナル・プレスを狙う人向けです。
宮殿は中古市場でも人気が高く、価格の幅が非常に大きい作品なので、確認すべき点を押さえてから動いてください。
7-1. 規格番号とランアウトの確認
版を特定する手がかりは、発売年、規格番号、クレジット、そして盤の内周に刻まれたランアウトの刻印やマトリクス番号です。
とくにランアウトは、工場や金型の世代、マスタリングの違いを反映していることがあります。
ジャケットだけでは判断できません。
写真に盤の内周が写っていない出品は、版の同定ができない出品だと考えたほうが安全です。
出品者に刻印の文字を尋ねるのは、失礼でも何でもありません。
もうひとつ、宮殿には版によって最後にかすかな隠しトラックが入っているものがあります。
また、初期プレスの内袋に印刷された演奏時間は間違っている、という指摘もある。
こうした細部が、盤を見分ける材料になります。
7-2. 価格を押し上げる要素と落とし穴
価格を決めるのは、希少性、プレスされた国、初版かどうか、盤とジャケットの状態、そして付属品です。
日本盤なら帯の有無が大きい。
帯は完品性を示す一方で、いちばん失われやすい紙物ですからね。
ありがちな失敗を挙げておきます。
盤の状態表記だけを見て、帯やインサートの欠品を見落とす。
同名の再発をオリジナルだと思い込む。
海外盤の規格の違いを確認せずに買う。
盤の状態より先に、まず版を確認するという順番を守るだけで、失敗はかなり減ります。
中古相場は常に動きます。
この記事では具体的な金額を書きません。
ここに書いているのは記事執筆時点での考え方であり、実際の価格や在庫は販売店や公式サイトで必ず確認してください。
そして、焦って高値をつかまないこと。
宮殿は極端に希少な作品ではないので、待てば必ず出てきます。
8. サブスクで宮殿を聴く場合
買う前に、まずは配信で通して聴きたい。
そう考えるのは自然ですし、私もそれを勧めます。
ただ、この作品には配信ならではの注意点があるので、そこも書いておきますね。
8-1. 配信に載るまで時間がかかった背景
キング・クリムゾンは、長いあいだ主要な配信サービスに作品を出していませんでした。
動きがあったのは2019年、デビュー50周年のタイミングです。
同年5月にまずアップル・ミュージックで13枚のスタジオ作が公開され、6月10日にスポティファイへと広がりました。
興味深いのは、その理由です。
マネージャーのデイヴィッド・シングルトンは、フィジカルの売上が下がったからではないと説明しています。
むしろ自主レーベルDGMでのCDやレコードの売上は伸びていた。
それでも配信に踏み切ったのは、若い世代が音楽を見つける場所が変わったからだと語っています。
ちなみに、スポティファイでの公開当初、『宮殿』と『レッド』は最初のリストに含まれておらず、翌日に追加されました。
配信は「置いてある」のではなく、権利者の許諾のもとで、その時期その地域に開かれているアクセス権だという話が、そのまま形になった出来事だと思います。
8-2. 並んでいるバージョンの見分け方
配信で宮殿を検索すると、同じジャケットのアルバムが複数並ぶことがあります。
これは別作品ではなく、ミックス違いです。
見分ける手がかりは、アルバム名に添えられた表記と、収録曲の並びです。
周年の表記が入っていれば新しいミックス、曲が5曲だけなら本編のみ、後半に別テイクや長尺版が続いていれば拡張版、といった具合ですね。
曲の長さも判断材料になります。
ただし、どのバージョンが配信されているかは国とサービスと時期によって変わります。
ここに書いた状況は記事執筆時点のものなので、実際に開いたときにどう並んでいるかは、あなた自身の画面で確認してください。
以前あったものが消えることも、この作品に限らず普通に起こります。
宮殿の権利関係は今も動いています。
2010年にカニエ・ウェストが「21世紀のスキッツォイド・マン」を自曲に使った件では、のちに使用許諾をめぐる訴訟に発展し、2024年に和解しています。
半世紀以上前の録音が、今も権利の対象として生きているということですね。
8-3. マスターテープと版に関するよくある質問(FAQ)
- マスターテープはいつ、どこで見つかったのですか?
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ヴァージン・レコードのアーカイヴに保管されていたテープの中から発見されました。時期については2002年とする資料と2003年とする資料があり、確認した時点と公表された時点のずれによるものと考えられますが、断定はできません。いずれにせよ2000年代初頭で、その成果が2004年のオリジナル・マスター・エディションとして形になりました。
- 結局どの版がいちばん音がいいのですか?
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ひとつに決められません。1969年の音像に近いのは2004年盤、細部の見通しが良いのは2009年ミックス、その中間で落ち着いているのが2019年ミックスです。あなたが「当時の鳴り方」を求めるのか「情報量」を求めるのかで答えが変わります。どれか一枚と言われれば、私は2019年ミックスから入るのが失敗しにくいと思いますよ。
- 2009年と2019年のミックスはどちらを選ぶべきですか?
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楽器の分離や空間の広がりを楽しみたいなら2009年、1969年の質感を残したまま聴きやすくしたものが欲しいなら2019年です。スティーヴン・ウィルソン本人は2019年版のほうがオリジナルに忠実だと語っていますが、2009年版を支持する人も今なお多くいます。好みの問題として構いません。
- 英国の初回盤は高くても買う価値がありますか?
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歴史的な物としての価値は確かにあります。ただ、音の素性という点では、当時のプレスも一次マスターから直接作られたとは限りません。純粋に音を求めるなら、まず2004年以降の版を聴いてから判断することをおすすめします。初回盤は「音を買う」というより「時代の物を買う」買い物だと考えたほうが納得しやすいですよ。
- リマスターとリミックスは何が違うのですか?
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リマスターは完成済みのステレオ・ミックスの音質を作り直すもの、リミックスは楽器ごとに分かれたマルチトラックに遡ってバランスと配置を組み直すものです。宮殿では両方が行われているため、同じ「再発盤」でも中身がまったく違います。買う前に、何年のどの作業によるものかを確認してください。
8-4. まとめ

『クリムゾン・キングの宮殿』のマスターテープの話は、単なる裏話ではありません。
この作品がどう聴かれてきたかの歴史そのものです。
1969年の事故で本来の姿が隠され、30年以上コピーの音が流通し、倉庫から一本のテープが出てきたことで、ようやく元の姿が聴けるようになった。
そのうえで、私が伝えたいのはひとつです。
高い盤が正解ではないし、新しい版が正解でもありません。
あなたがこの作品の何を聴きたいのかで、選ぶべき盤は変わります。
- 初めて聴くなら、入手しやすい現行盤から
- 1969年の音像に近づきたいなら、2004年の一次マスター由来の版
- 細部まで聴き分けたいなら、40周年か50周年のミックス
- 比較したいなら、複数のミックスを収めた50周年エディション
- 中古を狙うなら、盤の状態より先に版の確認を
配信状況、在庫、価格はどれも変わります。この記事に書いたのは記事執筆時点での状況なので、買う前には必ず販売店や公式サイトで最新の情報を確認してください。
最後に。あの真っ赤な顔のジャケットを初めて見たとき、あなたは何を感じましたか。
私は正直、怖いと思いました。
そして音を聴いて、その怖さが正しかったと知った。
半世紀以上前の録音が、いまだにこれだけの版を生み、これだけの議論を呼んでいる。
それ自体が、この作品の力の証明だと思っています。
熱は、まだ終わらない。
あなたにとっての一枚が見つかりますように。



