エディアンドホットロッズ(Eddie and the Hot Rods)というバンド名を聞いて、あなたはどのようなイメージを持つでしょうか。
1970年代の英国ロックシーンにおいて、彼らは非常に重要でありながらも複雑な立ち位置にいたバンドです。
イアン・デューリーが率いたKILBURN & the High Roadsらが耕した「パブ・ロック」と呼ばれる原点回帰のシーンから登場し、そのシーンに引導を渡すかのように、爆発的なエネルギーを詰め込んだ名盤『 十代の爆走(Teenage Depression)』で時代を切り開きました。
バンド最大のヒット曲であり、パワー・ポップの名曲として知られる「Do Anything You Wanna Do」は、今もなお多くのロックファンに愛され続けています。
しかし、彼らがヒットチャートを駆け上がった1977年は、すでにBrian Jamesが率いたザ・ダムドの衝撃的なデビューシングル「New Rose」が登場し、時代がパンク・ロックへと急速に雪崩を打った後でした。
Tavaresの当時のチャート動向などを辿ると、ディスコミュージックが全盛だったことが明確に分かり、彼らがいかに異質で先鋭的な存在だったかが際立ちます。
バンドの歴史は、メンバーの変遷そのものが英国ロック史の縮図のようです。
ベーシストのPaul Grayは、ホット・ロッズ脱退後にパンクの中核であるザ・ダムドや、一時的にThe Members、さらにはハードロックの重鎮UFOでも活躍するという、ジャンルを超えた驚くべきキャリアを歩みました。
オリジナルドラマーは解散後にOne the Jugglerへ、そして90年代の再結成時にはパブ・ロックの盟友Dr. FeelgoodからSteve Walwynがギタリストとして合流するなど、その交友関係も非常に興味深いバンドです。
この記事では、パブ・ロックとパンクという二つの巨大なムーブメントを繋いだ「ミッシング・リンク」、エディアンドホットロッズの軌跡と、その不滅の音楽的遺産に深く迫ります。
- エディアンドホットロッズの結成とパブ・ロック・シーンでの役割
- 名盤『十代の爆走(Teenage Depression)』とヒット曲の文化的背景
- ポール・グレイなど主要メンバーのジャンルを超えたキャリアパス
- パンク・ムーブメントの勃発とホット・ロッズの関係性
1. エディアンドホットロッズの結成と名曲
- KILBURN & the High Roadsとの時代
- 名盤Teenage Depressionの登場
- ヒット曲Do Anything You Wanna Do
- Tavares wikiで見る当時の音楽シーン
1-1. KILBURN & the High Roadsとの時代
1970年代半ばのイギリス音楽シーンは、イエスやピンク・フロイドに代表されるプログレッシブ・ロックの長大化と、デヴィッド・ボウイやT・レックスらグラム・ロックの虚飾性が頂点に達していました。
大規模なアリーナでの公演が主流となる中、そのアンチテーゼとして生まれたのが「パブ・ロック」というムーブメントです。
これは、大規模なコンサートホールではなく、ロンドンのパブ(酒場)という原点に戻り、アメリカのR&Bや初期のロックンロールをストレートに、汗まみれになって演奏するスタイルでした。
このシーンの中心にいたのが、ドクター・フィールグッドであり、後にイアン・デューリー&ザ・ブロックヘッズで大成功を収めるイアン・デューリーが率いたKILBURN & the High Roads(キルバーン&ザ・ハイ・ローズ)でした。
彼らがパブをサーキット(巡業)することで、アンダーグラウンドな土壌が着実に耕されていったのです。
エディアンドホットロッズは、1975年にドクター・フィールグッドと同じエセックス州キャンベイ・アイランドで結成されます。
当初はドクター・フィールグッドの弟分的な存在と見なされていましたが、そのサウンドは既存のどのパブ・ロック・バンドよりも明らかに速く、ラウドで、攻撃的でした。
フロントマンのバリー・マスターズによる、まるで感電したかのようなエネルギッシュなパフォーマンスは圧巻で、ロンドンの伝説的なライブハウス「マーキー・クラブ」で瞬く間に評判を呼びます。
マーキー・クラブでの激闘
彼らは、KILBURN & the High Roadsらが切り開いた道を爆走する、パブ・ロック・シーンの最終ランナーであると同時に、次に来る「パンク」という爆発の導火線に火をつける存在となっていったのです。
1-2. 名盤「十代の爆走(Teenage Depression)」の登場
マーキー・クラブでの圧倒的なライブ・パフォーマンスで名を挙げたバンドは、1976年にデビューアルバム 『十代の爆走(Teenage Depression)』をリリースします。
このアルバムは、ドクター・フィールグッドやモーターヘッドとの仕事で知られる ヴィック・メイル をプロデューサーに迎え、わずか4日間という短期間でレコーディングされました。
彼らのライブ・エネルギーを一切損なうことなくスタジオに持ち込んだかのような、荒々しくスピーディーなロックンロールが全編にわたって炸裂しています。
アルバムには、オリジナル曲に加え、ザ・フーの「The Kids Are Alright」、ジョー・テックスの「Show Me」、サム・クックの「Shake」といったカバー曲も収録されており、彼らのルーツが60年代のR&Bやモッズ・ビートにあることを明確に示しています。
しかし、その演奏はオリジナルへの単なるリスペクトに留まらず、性急で叩きつけるようなアレンジが施されていました。
アルバムのタイトル曲「Teenage Depression」はシングルカットされ、全英チャート35位を記録。
これは、当時の若者が抱えるフラストレーションや焦燥感を「十代の憂鬱」という言葉で代弁するような歌詞とサウンドであり、まさに時代を象徴する一曲となりました。
物議を醸した歌詞
「Teenage Depression」のオリジナル歌詞には「金を全部使って、鼻から吸い込んでる(I’m spending all my money and it’s going up my nose)」という、ドラッグの使用を強く示唆する一節がありました。これはバンドにストリートの危険なイメージを与えましたが、さすがにラジオでの放送は難しく、シングル・リリース時にはこの部分の歌詞が編集(差し替え)されています。
このアルバムは、しばしば 「パブ・ロックとパンクのミッシング・リンク(失われた環)」 と評されます。
その理由は以下の点に集約されます。
- サウンド: R&Bやロックンロールを基盤に持ちつつも、パンク特有の性急なスピード感と攻撃性を兼ね備えている。
- アティテュード: 洗練されたスタジオ技術や音楽的技巧よりも、ライブの生々しい衝動とエネルギーを最優先している。
実際、この直後に登場するセックス・ピストルズやザ・ダムド、ザ・クラッシュのジョー・ストラマーといったパンク・ロッカーたちは、ホット・ロッズのギグを観ており、彼らのハイエナジーなステージから多大な影響を受けていました。
『Teenage Depression』は、まさに時代が求めていたサウンドでした。
当時の批評は賛否両論で、NME誌は彼らを絶賛しましたが、新興のパンク・ファンジン『Sniffin’ Glue』は「生ぬるい」と切り捨てるなど、まさに過渡期ならではの評価を受けています。
このアルバムがなければ、英国のパンク・ロックはもう少し違う形になっていたかもしれません。



1-3. ヒット曲「Do Anything You Wanna Do」
『Teenage Depression』でパンク前夜のシーンに強烈なインパクトを与えたホット・ロッズですが、皮肉なことに、彼らのキャリアで最大の商業的成功を収めたのは、パンク・ロックが完全にシーンを席巻した1977年にリリースされたシングル 「Do Anything You Wanna Do」 です。
この曲は、パブ・ロック・バンド、カーサル・フライヤーズ(Kursaal Flyers)から新加入したギタリスト兼ソングライター、グレアム・ダグラスがバンドにもたらしたものでした。
R&B色の強かった初期のサウンドから一転、彼の持ち味であるキャッチーでメロディアスな「パワー・ポップ」路線へと大きく舵を切った作品です。
このシングルリリースの際、バンド名はイメージ刷新を図るためか、一時的に 「Rods」(ロッズ) と短縮されます。
マネージャーのエド・ホリスとグレアム・ダグラスが共作したこの曲は、若者の解放感を高らかに歌い上げるアンセムとして受け入れられ、全英シングルチャートで第9位という大ヒットを記録しました。
成功がもたらしたジレンマ
この「どっちつかず」のイメージは、彼らの勢いを徐々に削いでいくことになります。
とはいえ、この曲が持つ普遍的な高揚感と「何だって、やりたいことをやれ」という解放感は本物であり、時代を超えて愛されるロック・アンセムとして今も燦然と輝いています。
1-4. Tavares wikiで見る当時の音楽シーン
エディアンドホットロッズやパンク・バンドがいかに革新的であり、当時の主流からかけ離れていたかを理解するために、1977年当時のヒットチャートを具体的に振り返ってみましょう。
例えば、アメリカのR&B/ソウル・グループである Tavares(タヴァレス)のWikipediaページを調べると、彼らがディスコ・ブームの寵児であったことが分かります。
英国の公式チャートを集計する Official Charts Companyの記録 によると、Tavaresは1977年当時、英国でも大きな人気を博していました。
1977年のUKチャートは、Tavaresの「Whodunit」(全英5位)や「Mighty Power of Love」(全英25位)といったディスコ・ヒットが上位を賑わせていました。
さらにチャート全体を見渡せば、ABBAの「Knowing Me, Knowing You」やドナ・サマーの「I Feel Love」といったディスコ・ポップス、デヴィッド・ソウルの「Don’t Give Up on Us」のようなソフト・ロックがチャートの頂点を極めていた時代です。
1977年 全英チャートの多様性と対比
まさにディスコと洗練されたポップスが全盛の時代でした。映画『サタデー・ナイト・フィーバー』が世界中を席巻する直前の、華やかでダンサブルな音楽が主流だったのです。だからこそ、ホット・ロッズの「Do Anything You Wanna Do」が持つ性急なギターサウンドや、セックス・ピストルズの「God Save the Queen」が叩きつけた反逆的なエネルギーは、単なる音楽の流行を超えた社会現象としてのインパクトを持ち得たのです。
主流の音楽シーンとは全く異なる文脈で、彼らは自らのロックンロールを鳴らし、それが新しい時代の扉をこじ開けたことがよく分かります。
2. エディアンドホットロッズとメンバーの軌跡
- 重要人物Paul Grayのキャリア
- Brian JamesとDamnedの「New Rose」
- UFOとThe Membersへの参加
- One the Jugglerとスティーヴ・ニコル
- ギタリストSteve Walwynの合流
- 今も続くエディアンドホットロッズの伝説
2-1. 重要人物Paul Grayのキャリア
エディアンドホットロッズの歴史、ひいては英国ロック史を語る上で欠かせない最重要人物の一人が、ベーシストの Paul Gray(ポール・グレイ)です。
彼は、バンドの全盛期をその卓越したベースプレイで支えただけでなく、その後のキャリアにおいてもジャンルを縦横無尽に横断し、多大な影響を与え続けることになります。
ポール・グレイは、わずか15歳の時に新聞広告を見てオーディションを受け、ホット・ロッズに加入しました。
あまりに若かったため、アイランド・レコードとの最初の契約には父親の署名が必要だったという逸話が残っています。
彼は、モーターヘッドのレミーやザ・フーのジョン・エントウィッスルからの影響を公言しており、その若さ溢れるエネルギッシュかつメロディアスに動き回るベースラインは、デイヴ・ヒッグスのギターリフと共に、バンドのハイエナジーなサウンドの核となりました。
しかし、バンドがアルバム『Thriller』(1979年)のセールス不振でアイランド・レコードから契約を解除されると、音楽的な方向性の違いもあり、1980年にポール・グレイはバンドを脱退します。
そして彼が次なる活動の場として選んだのが、キャプテン・センシブルからの熱烈な勧誘を受けたパンク・バンド、ザ・ダムドでした。
ポール・グレイのダムド加入

2-2. Brian JamesとDamnedの「New Rose」
ポール・グレイが後に加入することになるザ・ダムドは、エディアンドホットロッズと極めて深く、因縁めいた関係性があります。
1976年2月、ホット・ロッズは聖地マーキー・クラブでの重要なギグで、まだ無名だったサポート・アクト、セックス・ピストルズを起用しました。
このギグは、ピストルズがヘッドライナーであるホット・ロッズの機材を(意図的に)破壊するという伝説的な(あるいは悪名高い)事件に発展します。
この事件はピストルズにとって初のNME誌レビュー記事となりましたが、そこにはヘッドライナーのホット・ロッズの名は一切ありませんでした。
報復として、ホット・ロッズは翌週のNME誌上で、今後のツアーからピストルズを「解雇した」と発表。
この応酬こそが、パブ・ロックからパンクへとシーンの主導権が移る瞬間の混沌を象徴しています。
そしてこの出来事からわずか数ヶ月後の1976年10月22日、決定的な一撃が放たれます。
それが、ギタリストの Brian James(ブライアン・ジェイムズ)が率いるザ・ダムドが、新興レーベル「Stiff Records」からリリースした、「New Rose」です。
「New Rose」は、英国で初めて公式にリリースされたパンク・ロック・シングルとして、ロック史にその名を刻んでいます(出典:Rolling Stone Japan)。
ホット・ロッズがまだR&Bのルーツや楽曲構成を引きずっていたのに対し、「New Rose」の冒頭の爆発的なドラム・フィルと、すべてを薙ぎ倒すかのようなギターリフ、そして「Is she really going out with him?(ザ・シャングリラスの1964年のヒット曲 「Leader of the Pack」 の冒頭セリフの引用)」というシャウトは、まさしく新しい時代の到来を告げる号砲でした。
ザ・ダムドはこのフレーズをパロディ的に引用していて、当時のアメリカンガールズグループ的ドラマ性を皮肉まじりに導入することで、パンクの中にロックンロールの伝統へのオマージュを込めていました。
ホット・ロッズがパンクへの「道」を汗だくになって整備したとすれば、ブライアン・ジェイムズの「New Rose」は、その道を時速200kmで駆け抜けた最初の「車」と言えるでしょう。
このシングルの登場により、シーンの主役は一瞬にして彼らパンク・バンドたちへと移っていったのです。
そして前述の通り、その道を整備したホット・ロッズのベーシストだったポール・グレイが、数年後にこのダムドに合流し、バンドの黄金期を支えるという事実は、英国ロック史の最も面白い巡り合わせの一つです。

2-3. UFOとThe Membersへの参加
ポール・グレイの多彩で予測不可能なキャリアは、ザ・ダムドでの活躍だけにとどまりません。
彼の経歴を追うと、パンク・ロックとは全く異なるジャンル、ハードロック・バンドの UFO の名前が挙がることに驚かされます。
1983年、ダムド内の人間関係の悪化からバンドを脱退したポール・グレイは、英国ハードロックの重鎮であるUFOに、オリジナルベーシストのピート・ウェイの後任として加入。
ワールドツアーに参加し、『Making Contact』(1983年)やライブEP『Ain’t Misbehavin’』(1988年)に参加しました。
さらに、ホット・ロッズ在籍中の1979年頃、ポール・グレイは「Sound of the Suburbs」のヒットで知られるパンク/ニューウェーブ・バンド、The Members のツアーに、一時的なサポート・ベーシストとして参加していたという記録も残っています。
ジャンルを無効化するベーシスト
ポール・グレイのキャリアは、パブ・ロック(ホット・ロッズ)から始まり、パンク/ニューウェーブ(ザ・メンバーズ、ザ・ダムド)を経て、ヘヴィ・メタル/ハードロック(UFO)に至るという、非常に稀有なものです。
これは、彼が特定のジャンルに縛られない卓越した技術と、どんなサウンドにも対応できる音楽的柔軟性を持った、真の「ミュージシャンズ・ミュージシャン」であったことの証左と言えます。
2-4. One the Jugglerとスティーヴ・ニコル
バンドのオリジナル・メンバーであり、そのタイトで性急なドラミングで初期サウンドを支えた スティーヴ・ニコル(Steve Nicol)も、バンド解散後に新たな道を歩んでいます。
1981年にエディアンドホットロッズが一度目の解散を迎えた後、スティーヴ・ニコルは One the Juggler(ワン・ザ・ジャグラー)というバンドに参加。
アコースティックや民族音楽的アプローチも取り入れたニューウェーブ・サウンドで一部にカルト的な人気を得ました。
メンバーの流動性
2-5. ギタリストSteve Walwynの合流
1980年代の解散と短期再結成を経て、エディアンドホットロッズは1992年にファン待望の「クラシック・ラインナップ」(マスターズ、ニコル、ヒッグス、グレイ)でヨーロッパ・ツアーを敢行しますが、このツアーを最後にオリジナルギタリストのデイヴ・ヒッグスがバンドを離れます(ヒッグスは2013年に逝去)。
しかし、バリー・マスターズはバンドを止めることなく、活動を継続するために新たなギタリストを迎えます。
その一人が、パブ・ロック・シーンの盟友とも言える ドクター・フィールグッド のギタリスト、Steve Walwyn(スティーヴ・ウォルウィン)でした。
スティーヴ・ウォルウィンは、ドクター・フィールグッドのカリスマ的フロントマンであったリー・ブリローが闘病により活動が困難になった時期、その合間を縫う形でホット・ロッズのツアーにサポート・ギタリストとして参加。
パブ・ロック・シーンを代表する2大バンドのメンバーが合流したことは、オールドファンにとって大きな話題となりました。
その後もバンドはミック・ロジャース(マンフレッド・マンズ・アース・バンド)など様々なギタリストを迎えながらメンバーチェンジを繰り返し、1996年には日本のレーベル、クリエイティブマンから15年ぶりとなるスタジオ・アルバム『Gasoline Days』をリリースするなど、精力的に活動を続けました。
2-6. 今も続くエディアンドホットロッズの伝説
エディアンドホットロッズの長く波乱に満ちた歴史において、最大の転機であり、最も悲しい出来事が2019年10月1日に訪れます。
結成から44年間、唯一無二のオリジナル・メンバーとしてバンドを牽引し続けたフロントマン、バリー・マスターズが63歳で逝去したのです。(出典:MUSIC LIFE CLUB)
彼の死により、バンドの歴史はついに幕を閉じるかと思われました。
まさに「エディ」そのものであった彼の不在は、バンドの終焉を意味するかに思えたのです。
しかし、残されたメンバーたちは、バリー・マスターズが守り抜いたバンドのレガシー(遺産)を未来に引き継ぐことを決断します。
長年ベーシストを務めてきたイアン・“ディップスター”・ディーンが、マスターズの遺志を継いでリードボーカルのマイクを握り、新たなベーシストとしてミック・ストーナー(ザ・コーズUK)が加入。
バンドはパンデミックによる中断を乗り越え、2021年以降も精力的にツアーを再開しました。
レガシーの継承者たち
2022年、彼らは 『Guardians of the Legacy』 と題された、バンドの「今」を示すニュー・アルバムをリリースしました。
このタイトルは、単なるトリビュート(追悼)ではなく、バリー・マスターズ亡き後も、エディアンドホットロッズの音楽とハイエナジーなロックンロール精神を未来に伝えていくという、現メンバーの強い決意表明となっています。
パブ・ロックの熱気からパンクの嵐を駆け抜け、数々のメンバー変遷と時代の荒波、そして中心人物の死という最大の悲劇を乗り越えて、エディアンドホットロッズのハイオクタンなロックンロールは今もなお、ステージの上で鳴り響いているのです。
2-7. エディアンドホットロッズの軌跡まとめ
- エディアンドホットロッズは1975年に結成されたパブ・ロック・バンド
- KILBURN & the High Roadsらが築いたシーンの後期に登場
- 初期のサウンドはR&Bベースだが、より速くラウドだった
- 1976年のデビュー作『Teenage Depression』はパンクへの架け橋と評される
- セックス・ピストルズのサポート起用などパンク前夜の重要バンドだった
- 1977年の「Do Anything You Wanna Do」が全英9位の大ヒットを記録
- ヒット当時はTavaresらのディスコがチャートを席巻していた
- ベーシストのPaul Grayは15歳で加入した天才プレイヤー
- Brian James率いるダムドが「New Rose」でパンクの時代を決定づけた
- Paul Grayはホット・ロッズ脱退後、ザ・ダムドに加入
- さらにPaul GrayはハードロックのUFOにも在籍した
- Paul GrayはThe Membersのツアーにも一時参加している
- ドラマーのスティーヴ・ニコルは解散後One the Jugglerに参加
- 90年代の再結成時にはDr. FeelgoodのSteve Walwynがギターで参加
- 2019年に唯一のオリジナルメンバー、バリー・マスターズが逝去
- 現在はベーシストだったDipster Deanがボーカルを引き継ぎ活動を継続






【人生の初期衝動】
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